ひとりのじかん

ひとりのじかんを楽しく大切にして

くらべる

 

子どもの頃、同級生やいとこたちと一緒にいるとき、大人に比べられるのが苦痛だった。

親戚の集まりがあると、大人たちが子どもたちをあれこれ比べだす。大人は励ますつもりなのだろうが、〇〇ちゃんは勉強ができるだの、〇〇はどこどこの大学に入っただの、取り柄のないわたしは、話題にも上がらない。取り柄はなくともプライドはあるので傷つくのである。放っておいてほしい。

学校でもそう、兄が優秀だったので先生にも比べられた。お兄さんはなんでもできたねって。だから何?

f:id:hitori-jikan:20200510184814j:image

大人になって、ありがたく結婚もできて、子どもも生まれた。人生を順調に歩めていることに幸せを感じていた。まるでレースに勝ったみたいに。

 

子どもは好きだったので、楽しかった。だが、公園デビューすると、よその元気なお子さんを見ていると我が子は、あまりに消極的だった。臆病で優しすぎるのである。

小学校に上がってもわたしに似て、手も上げられず教室の隅っこにじっとしている我が子にじれったく思った。サッカー教室に入っても常にベンチを温めている我が子になんとも言えない気持ちになった。

 

f:id:hitori-jikan:20200510194527j:image

それを本人に言ったことはなかったが、よその子と比較している自分が嫌だった。それを一番嫌っていたのはわたし自身だから、比べたくなかった。

成績を順に上からつけたら、必ずビリが出るのも必然的なことで、うちの子はその端っこにいる。誰かがそこに来なければならなくて、それが我が子だっただけだ。

よその子は見ないことにした、この子が楽しく生きているかだけを考えるようにした。子どものおかげで、比べないことをする意識を持てるようになった。

子どもたちはいろいろ辛いこともあったが、それぞれ成長して家を出て行った。こんなわたしが育てた子どもたちなのに、きちんと自分の人生を歩み始めている。感動である。

 

そして、またわたし自身の人生に戻ってきた。今、自分を取り戻す作業を繰り返しているのだが、またここで人と比較している自分と葛藤し始めた。「自己肯定感を高めよう」とか「マイナス思考をプラスに変えよう」とか「人生はチャレンジ」だとか目に入ると、今の自分がダメな気がして苦しくなるのだ。「ダメ人間」というレッテルを、自分にぺたりと貼っている。ありのままの自分でいいとわかっているけど、難しいのだ。これまで育ってきた環境や考え方のクセが抜けない。恐るべし日本の教育。

今は亡きわたしの旦那は、心の支えだった。わたしと真逆で、何より自分の考えを優先する人で、揺るぎなかった。うらやましかった。自分のことを棚に上げる技術は、ある意味素晴らしいもので尊敬していた。ふふ。

 

「わたしは、自分自身に厳しすぎる」と思うようにしている。もっとわがままでいいのだ。思うようにそう思ったら、そうしていいのだと。努力の上に花が咲くとかの努力はしなくていい。周りのことは周りの思うように任せよう、そこまで自分が背負うことはないのだと言い聞かせている。人と比べない。わたしがわたしの人生を楽しむために、やりたいことに一生懸命になろう。わたしがよければそれでいい。