ひとりのじかん

ひとりのじかんを楽しく大切にして

ひろしま

 

昨日は原爆の日だった

昨年までは仕事で黙祷する時間がなかったが、今年は時間通りに黙祷できた

 

わたしは父の転勤で広島に3年ほど住んだことがある

昭和42年から45年

小学校2年生から4年生まで

小学校の思い出が一番濃いのが広島での生活だ

 

f:id:hitori-jikan:20200807134926j:imageもみじ饅頭が美味しかった

 

広島では自分のことを「わし」と呼ぶ

老若男女皆「わし」

それはカルチャーショックだった

語尾に「のう」がつくのも気になった

「〇〇じゃけんのう」「そうじゃのう」「いいのう」

「のう」はなんだかのんびりした響きだった

 

8/6は夏休み中の登校日だった

その日原爆の映画を観せられ、被爆者の話を蒸し暑い体育館で聞かされた

社会科見学は、キャラメル工場とかではなくいつも原爆資料館だった

 

f:id:hitori-jikan:20200807135155j:image平和記念資料館が正式名称

 

記念のメダル型のキーホールダーはかっこよかったけど、幼いわたしはいきなりのディープな広島を見せられて、辟易した

担任の先生も真夏なのにいつも長袖の白いブラウスを着ていた

ある夏の日、学活の時間に先生は被爆した時の話をして、袖をまくり上げるとひきつれたケロイドの傷痕を見せた

生の傷痕を見るのはショックだった

 

当時は、広島市中心街に出ると、川沿いにバラックが落ちそうに立ち並び、駅前には物乞いがまだみられた

戦後がまだ続いていた

 

f:id:hitori-jikan:20200807134337j:image原爆スラム

 

住んでいた借家の裏には庭があり、雨の日は軒下でよくままごとをした

地面の土をほじると、何故だか白髪やら黒い髪の毛がそれはたくさん出てきて、恐ろしくなって止めた

原爆ドームの前の川に折り重なって人が浮いている想像をしたり、髪の毛ももしかして死体が埋まっているんじゃないかとか、まだ小さかったわたしには怖い思い出ばかりになってしまった

 

怖い思い出は、どんな理由があろうとも戦争は絶対してはいけないという気持ちを育てた

今わたしが生きている平和は尊いと学んだ

幼いだけにそれは体の隅々にまで浸透していって、平和記念公園をテレビで見ただけでも、当時のクマゼミの鳴き声や、暑いじゃり道を思い出し、気持ちを新たにするのだ

 

もちろん広島の思い出はそれだけではなく、母に内緒で行った駄菓子屋さんや、仲の良かった恵子ちゃんや、太田川の河川敷や、父の作った大きな池に兄が釣ってきた鯉や亀を入れたり、夏祭りでカタヌキに夢中になったり、楽しい思い出もいっぱいだ

 

それでも8/6になると、吊りスカートをはいたおかっぱ頭のあの頃のわたしを思い出すのだ